腰痛は心なのか体なのか
医者になりたてのころ、椎間板ヘルニアの手術の助手をつとめました。手術前にとても痛がっていた患者さんが、麻酔が醒めたときに「すっかり楽になった」とお話しされたことを思い出します。手術は大ざっぱに言えば「悪いものを取り出す」方法です。腫瘍を切除したり、壊れてそのままでは危険な臓器(の一部)を切り出します。椎間板ヘルニアの場合、飛び出た軟骨の一部が神経にあたり、腰や足の痛みをおこします。壊れた部品を修理することで腰痛が治るなら、話はシンプルです。しかし30年たった今、そうは簡単でないことを実感しています。
1 ヘルニアが原因!
薬草。温めた石。温泉。けん引。はり、マッサージその他、腰痛にいろいろな治療が行われてきました。結果はいいときもあれば悪いときもあり、ある人にはよく効いた治療法がほかの人にはダメだったり、有名な医師でも治せないことがあれば、インチキ治療でもよくなることがあり、古今東西にたくさんの説はあれど、どれ一つとして的を射るものがないのが腰痛治療の実態だったのです。
ところが20世紀の初めのイギリスで画期的な論文が発表されました。頑固な腰下肢痛の患者さんに対し、神経を圧迫していた軟骨のかたまりを摘出したところ腰痛が消えたという報告です。史上初めて目に見える形で腰痛の原因を提示し、物理的に原因を取り去れば症状が消える。これ以上わかりやすい説明はなかったので、お医者さんたちの世界ではいっきに腰痛=ヘルニア説が広まりました。
しかしながら、たしかに手術で症状が改善した人はいたのですが、それだけでは説明できない腰痛があること、手術だけですべての腰痛を治療するのはムリがあることに気が付いた人もすくなからずいたのです。
2 ヘルニア説の凋落
1970年代からCT、80年代からMRIという、体を切り開かずに調べる画像診断法が開発され、腰痛の診断が一気に進歩しました。ところが不思議なことがわかりました。腰痛の人に必ずヘルニアが見つかるわけでなく、まったく腰痛がない人にもけっこうな割合でヘルニアが見つかったのです。こうなるとヘルニア=腰痛説はあやしくなり、腰痛を一から考え直す必要が出てきました。わかったのは、ヘルニアがあってもなくても長い目で見ると腰痛が軽くなる人が大多数であること、ヘルニアが見つかって手術をした人としなかった人のどちらも5年後には良くなっていて結果に大きな差がないこと、画像診断では説明しずらい腰痛が一定の割合で存在することでした。
そこで医者・研究者は骨や筋肉の働きを調べなおし、痛みに関わると考えられた脳・神経の仕組みを研究し、痛みに心理学が関わっていることがわかったために治療や生活指導の方法を根本から変えていきました。みんなが当たり前と思っていたことが通用しなくなり、全く新しい考え方・やり方が広まることをパラダイム・シフトと呼びます。まさにこの30年は腰痛のパラダイム・シフトがおきた時間だったと言えるでしょう。
3 非特異的腰痛とは?
お医者さんたちが特に困ったのは、非特異的腰痛と呼ばれる原因のはっきりしない腰痛が予想以上に多く、ほぼ9割がこれに当てはまるということです。この中には、おそらく疲労性の筋痛、無意識の筋けいれん、せぼねの加齢性変化など検査では異常のないものが入るはずです。
また、腰痛には心理的影響が強いことがわかっており、痛みに対して過剰に反応する人がいたり、痛みがあることがその人に利点があるときに症状が強くなったり長引くこともわかっています。
よく外来で聞く例では、数年前から年に二三回腰痛があるという相談があります。ある程度の年になればこれぐらいは当たり前と考えることもできますが、慢性の腰痛が続いている状態と考える人がいます。朝起きぬけに腰が痛い、草むしりの後に腰が痛いのは年のせいということもできますが、何かの病気の先触れではないか、将来歩けなくなるのではないかと不安になり、病院を訪れる人は珍しくありません。このように、痛みの強さとは別に本人がどのように考えているかもだいじで、ものの見方を変える練習が必要なこともあります。
4 心なのか体なのか
以前、腰痛の原因はほとんどが心の中の怒り・不安・わだかまりなどのストレスであるという説が人気を博したことがあります。たしかに痛みを感じているのは脳ですから、脳に強いストレスがかかった時に痛みが出やすい・強くなりやすいというのはほんとうかもしれません。
しかし、椎間板ヘルニアや腰部脊柱管狭窄症などからだにはっきりした故障を起こす身体疾患があるのも事実です。つまるところ、腰痛を治すには心も体も考えるという、古株のドクター・治療家が経験的に知っていたことを現代の研究が裏付けたのでしょう。
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